小松帯刀

●幻の宰相、小松帯刀
幻の宰相と呼ばれる小松帯刀。それは彼が類稀なる才能と手腕を幕末の混乱期に家老として発揮しながらも、明治三年(1870年)に若くして亡くなったことを惜しんでのことである。
小松は天保六年(1835年)、喜入(現鹿児島市)領主の肝付兼善の三男として生まれ、政情不安定な幕末維新期に生き、活躍する。
のちに吉利(現日置市)領主であった小松家の養子となり、小松帯刀清兼と改名した。島津斉彬のもとでは火消隊長などになっている。斉彬の死後の文久元年(1861年)には側役に昇進して、大久保利通を重用するなどしながら島津久光・忠義を補佐した。文九二年(1862年)からは家老として、倒幕に向けて薩長同盟や王政復古、そして明治維新に尽力した。維新後は参与として版籍奉還を画策するなど、これからを期待される人材であったが、明治三年(1870年)に病気のため、36歳の若さで亡くなった。

●小松帯刀ゆかりの土地、吉利
吉利郷は、文禄四年(1595年)に禰寝(現南大隅町)から領地替えされてきた禰寝氏の私領地である。そのために、菩提寺である園林寺や十六代禰寝重長を御祭神にする鬼丸神社などは、旧領地にあったものである。藩政時代に入るとお仮屋(領主館)は、現在の吉利小学校の敷地に設け領内を治めていくことになる。その禰寝氏の享保十九年(1734年)に当主となった二十四代清香は、祖先とされる平重盛が小松内大臣であったことにちなんで、性を小松に変える。禰寝時代から数えて、二十九代となる帯刀(清兼)は、吉利郷に何度も足を運んでいる。それだけに吉利は、ゆかりの地として、小松家や禰寝氏に関する文化財が数多く点在していることから、散策も楽しむことができる。

●小松帯刀の墓と園林寺跡
小松家の菩提寺でもある園林寺跡に小松家歴代の墓、そして29代小松帯刀も眠っている。曹洞宗の寺で本尊として禰寝から運んできた阿弥陀如来像があったが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈でそのほとんどが失われてしまった。墓地へとつづく道の入り口にある人王像が、その不幸な歴史を物語っている。小松帯刀の墓は、妻お千賀と並んで吉利集落を見下ろす位置にある。またその横には昭和天皇より賜った石灯篭、近くには幕末の横綱であった陣幕が奉納した石灯篭や第二夫人であった琴子の墓などもある。

●独行の人・小松帯刀

吉利の地を見下ろす小松帯刀像(清浄寺)。
吉利の地を見下ろす小松帯刀像(清浄寺)。
小松帯刀は肝付家の三男として天保六年(1835年)に生まれた。一所持ちの三男であるからいずれは同格以上の家格の養子となる定めであった。ここに「小松幼若略歴」という史料が残されているのだが、小松の性格を知る上で大変興味深い。

「幼若略歴」によれば、幼少より儒学を横山安之丞に学んでいる。造士館の教授で、後に衆議院の門前で明治政府の腐敗に憤り自決する横山安武の父親、藩内一の学者であった。十五歳のころから本気で学問を志し、昼夜を問わず勉学に励んだ。かつ弟三人にも教え、御付の守役が勉強を教える必要がないほどであった。ところが十七歳のころから病気がちとなり、母親が勉強のしすぎである、と大変心配した。そこで小松は琵琶をひきはじめたのである。そして今度は琵琶にのめりこんでしまった。やはり昼夜を問わない熱中ぶりに執事が心配し、先祖の例をひいて琵琶に溺れるものでないと進言した。すると小松は涙を流して琵琶の糸をかなぐり捨て、二度と琵琶を手にすることはなかった。これらの話から何事にも没頭する小松の人柄が見て取れる。

また、この頃から若手下級藩士の集まりである精忠組の面々とも交流するようになる。小松くらいの家格であると供をつれるのが通常であるが、一向に構わず一人で出かけていく。そして保養のために温泉に浸っているときも身分を明かさず、平たく人と付き合うことを心がけた。このような「独行」が小松に多くの情報を与えた。

若くして斉彬の目に留まり、また藩主が忠義の時代になって大任を任せられる帯刀だが、それは学問に秀でていたことはもちろん、多くの人の意見を聴く事のできる耳を持ち、それを総合して決断する能力に長けていたからだと思われる。

今、苗代川は沈家の床の間に、古式ゆかしい立派な薩摩琵琶がある。沈家の伝承によれば、小松帯刀愛用の薩摩琵琶だという。小松が亡くなったのは明治三年、そのころ薩摩焼を世界に向けて発進し絶賛を浴びていたのが、十二代の沈寿官である。おそらく小松から沈寿官に渡ったものであろう。

※「小松帯刀古写真」の無断使用・二次使用は固くお断りさせて頂きます。
画像の使用を希望される方は、尚古集成館に直接お問い合わせの上、指定の手続きを経るようお願い致します。

備考生年月日 1835年12月3日
生誕地 薩摩国鹿児島
没年月日 1870年8月16日(満34歳没)
死没地 大阪府
page Top